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Rica OHYA
大矢りか

アシタ ノ アタシ モ キット アシタバLOVE。



目次

第12話


今ココにいるよ。



2020年9月から5か月の会期。
あの時のあそこから、今ココに来た。
うーん、「来た」と言うのは違うかな。「ココ」に行こうと思って来たわけじゃないから。方角を見据えて歩いてきたわけじゃないから。たまたま、ココにいる、ってとこだ。
今はココにいるけど、明日にはいない。

人生ってよく旅にたとえられるから、勘違いしちゃう。だって旅っていうと、見知らぬ土地にちょこっと滞在して、美味しいもの食べて新しいものを見て、お土産買って、ただいま、あ~楽しかった、でも家がやっぱり落ち着くね~、っていうイメージ。
でも、人生という時の旅は、戻ることのない旅なんだったな。one-way tripだったな。

『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。 舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。』
中学生の時に覚えた奥の細道のさわり。今だに折に触れて口ずさんでる。特に『馬の口をとらえて老いを迎ふるもの』っていうところが好きだった。
『日々旅にして旅をすみかとす。』なるほどね、、、旅に大荷物は必要ない。「今日」を受け容れ、深く抱きしめたら、静かに手放そう。
『明日は明日自らが思い煩う』、、、ってマタイだっけ?聖書の1節だよね。これも折に触れて浮かんでくる言葉。今日を過ごせて、明日が来るって思えるだけでシアワセ、なんだね。

ありがとう、Art Islands2020。
5か月の楽しい舟行きだった。

で。
今日はアシタバのつくだ煮を作った。海の向こうの大島を思いながら、食べた。美味しかった。
さて。
明日はどんな風景が拡がるんだろう!

2021.1.21記

第11話


補陀落渡海。



補陀落渡海、フダラク トカイ。このコトバを実感したのが、数年前の和歌山でのレジデンス。それ以来ずっとそのイメージは私の中に住んでいる。
補陀落、フダラク。遥か南方にあると信じられていた極楽浄土。彼の地に往生するために、中世の日本で実際に行われていたという、狂信的な捨て身行、だ。和歌山・那智勝浦が、渡海の出航地だった。
舟の小さな箱型の居室に僅かばかりの食料を積み込んで、人が乗れば外側から塞がれる。伴走船が曳航して沖合に出ると、曳いてきた綱を断ち切る。そこから、櫂も持たぬ渡海舟は、ただ海流に流されていく。遺骸となっても戻ってこなければ、それが浄土へ往生したことの証と信じられてきた。

私の家の南には海が見え、その水平線上はるか彼方に島が見えたり、見えなかったりする。その島こそが、フダラク、と私はそう信じてきた。ま、一般的には、神津島なんだけどね。
ウチから南方80kmぐらいの位置なんだけどね。神津島には、天上山という名の山があり、神々の集まるところと信仰されてきたそう。やっぱりね。聖なる島、なんだ。

で。
ちいさなタマシイが2020年12月8日の早朝、フダラクをめざして旅立った。
16年の歳月を共にした、ちいさないのち。最後のころは、食を拒否し、水さえ飲まず、透明な目をして遠くを見ていた。まるで即身成仏だった。いのちが揺らめきながら、徐々に弱くなり静かに消えていく。いのちの終い方を教えてくれた。
冷酷に過ぎ去って二度と戻ることはない「とき」を教えてくれた。

「今」と、「ちょっと前」って、全く違うんだよね。
ちょっと前は、動いてた、でも今は動かないよ。
「今」と「ちょっと前」は、なだらかに続いているんじゃなくって、まるで絶壁のように断絶してるもんだったんだね。「とき」は、流れじゃなくって、階段だったんだ。

旅立ったちいさな、いのち。
ネコ、です。
ネコ、なんだけど、神々しかった。
ありがとう、サスケ。まだまだ涙がとまらないけど、ありがとう。

ではまた。

2020.12.16記

第10話


森でひとり、


Zoomでプレゼンやった。
まるで森でひとり、池に小石を投げ込んでいるような気分。
慣れるのかな、こんなの?慣れたくないな。
リップサービス分を差し引いても、参加してくださった方からの好意的なコメントにはそりゃやっぱりうれしくはなるな。

おもしろかったのはこんなエピソード。
あるおばあちゃんが突然絵を描き始めたそうな。それも何かにとりつかれたような勢いで、描いて描いて描きまくった。
それがある日、ぷっつりと、まるで憑き物が落ちたかのように描くことをやめたんだと。

ワシもこれ、かな?人生の終盤で、やりそびれていたことをやり尽くす。
ワシにとって、「描く」ってまるで苦手なもんだったからな。スケッチブックを買っても、最後まで使い切ったことなんてなかった。

そうだね、新しい風景がみえてきてるんだね。

で、ある日ぷっつりと終わって、ぱったりと逝くのかな。やり切った感の中で逝けるなら、それはシアワセってもんだな。

ではまた。

2020.11.20記

第9話


彼の地の風に吹かれてみる。


小笠原会場展示用のモノを、発送した。
手仕事感満載の稚拙なモノだよ。。。気恥ずかしくもあるが、しょうがない、「今」のワシはコレなんだから。

封筒の宛先に「小笠原村 父島」と書くだけで、キモチが沸き立った。
彼の地のまだ知らぬ日差し、まだ吹かれたことのない風。
ココに在りながら、まだ見ぬ風景に想いを馳せる。
ヒトのココロって案外自由なんだな。自分というフィジカルな「縛り」から自由になるって、案外簡単なことなんだね。

そういえば、「制作」の愉しみも、ココでつくっているモノの向こうに、見えないモノを見る愉しさだったな。

ではまた。

2020.11.20記


第8話


タブローの呪い。


ペラ紙に描いてみた。
ヘンな色気が出ちまうぞ。
スケッチブック、それも100均の、に描いてるときは、ただ垂れ流すように描いて、終わったあとは見もしないのに。
ペラ紙に描くと、見直しちゃう。
『作品』っぽく、したいのかね?誰に対して、かね?誰に対して、エエカッコしい、なのかね?

ではまた。
2020.11.15 記

第7話


ただ過ぎに過ぐるもの。


枕草子だよ。260段。

ただ過ぎに過ぐるもの。
帆かけたる舟。人の齢。 (よわい)
春、夏、秋、冬。

明日11月7日は、ワシの誕生日。
ただただ、過ぎに過ぎていくなぁ。。。


ではまた。
2020.11.6 記


第6話


「見る」と「見られる」。「見える」と「見えない」。そして、島も動く。


今日は秋晴れ。大島がよく見えた。
見てる。ってことは、あちら側から見られてる、ってことだね。
数日前の雨続きの時には、厚い雲に覆われて、島は見えなかった。
見えなかった。でも、そこにあった。

見てても、見られてても、見えても、見えなくても、違いはないんだな。
「自分」がどこにいるかで、見てたり見られてたり、見えたり見えなかったりするんだな。

ところで、島も動くんだよ。
伊豆半島のウチから見る伊豆諸島は、横に並んでる。
大島から見たら、利島と新島が重なってた。えぇっ?!島が動いた?!ってビックリした。
自分がどこにいるかで、島の位置、島の見え方が変わる。

「見る」ときも、「考える」ときも、いつでも「自分」が中心。
当然のこと、なんだけど、時々思い出さないと忘れちゃう。単に「自分」が見てるだけ、「自分」が考えてるだけ、だったな。
「自分」から離れられれば、もっと世界は大きくなるんだな、きっと。
「つくってる」ときって、「自分」が透明になって「自分」から離れる。「自分」の呪縛からふうっと自由になるんだな。
それが愉しみ、なんだな。

ではまた。
2020.10.12 記


第5話


染みついた刷り込みから逃れられない。


お散歩で摘んだアシタバで、てすさびの毎日。
ルーティーンになってきたよ。
楽しくなってきたよ。
なんでつくるのか?なにが表現なのか?そんなこと考えなくてよかったんだと、気が付いたよ。
誰かのためにやってるんじゃない、てめぇの勝手でやってるんだからさ。(汚い言葉で失礼)
アートの社会的意義とか、ヘリクツこねたこともあったけどね。

しかし。
今日の事務局からのメールは、展示やら報告集やらの提出期限について。
一気に引き戻される。「アーティスト」であることを求められてるよ。
それに応えるかのように「作品」をつくらなくてはと身を固くしている自分がいる。
教育による刷り込みと長年の習慣で、「作品」をでっち上げようとしている自分がいる。

ではまた。
2020.10.9 記

第4話


30年前のクレヨン。


子供用の『サクラクレパス』。
年代物だよ、30年前のだよ。
でも、どんなのでもいいの。
アシタバの草の汁のまわりに、はっきりした色が欲しかったの。

『表現』でもないし、『役に立つ』もんでもないし、、、、
ただ、塗るのが楽しいの。
なんだろね?
ほんの数十分のお楽しみ。

ではまた。

2020.10.5 記

第3話


パスポートが失効していた。


2020年8月25日で失効。今日気が付いた。
もう、更新する必要ないのかな?
海外での制作なんて、もう、ない、のか?

コロナ。
中世のペストと比較されることがよくあるけど、
バベルの塔に次ぐ転換期のように感じるよ。

それにしても、10年前の自分、希望に満ちた顔をしてるじゃないか?(当社比)

ではまた。

2020.10.1 記

第2話


アシタバで、てすさび。


散歩の途中で摘んだアシタバ。
紙にこすりつけて、叩きつけて。草の匂い、草の汁の色が、指に紙に染み込む。

手すさび。

ただただ、手で、手を使って、手に力を入れることがうれしくて。
表現とか、そんな高尚なコトじゃなく。言いたい『コト』なんてないし。
、、、少なくともアタマに文字で浮かんでくるようなコトなんて言いたくないし。

こんな極私的なことを、オンラインアート展にアップしていいのか?と躊躇しているうち、どんどん鮮度が失われていく。
誰にも読まれないことを前提に書いてると言いながら、やっぱり、他のヒトの目が欲しいんだよね。

それにしてもね、随分と久しぶりに、紙になんか、かいた。
随分と久しぶりに、感じてることなど、たったこれだけだけど、文字にしてみた。
そこから展開させようとか、作品にしようなぞとは夢思っちゃあいないけど。

でも、手すさび。楽しい。

ではまた。

2020.9.30 記


第1話


アシタバを食べる。大島を食べる。


アシタバって、今日摘んでも明日にはまた葉が出る、だから「明日葉」。
その強い生命力を食べてカラダにいれて、会期5か月の間ご利益にすがろうという腹です。
と、書いてふと思った。

アシタバって私には大島特産ってイメージだったけど、むしろ八丈島かも?ですね。
そんな、よそモンの思い違いも含めての舟出です。

今回のアートアイランズは「思考が5か月間で変容していく過程を見せる」ことが意図なのでしょう。
で、その思考の先には「カタチ」となった表現作品があるべき、なのでしょうね、もちろん。

でも「今」私は「つくるって、ナニ?」「表現って、ナニ?」「今、何をするの?何ができるの?」。
コロナ騒ぎで、すべてのレジデンスの予定はキャンセル。
オンラインやらリモートやら、今を生き抜く方法もあるようだけれど。
「現場」で、「その場のモノ」との対話からつくる、のが私の流儀だった。
それが全部否定されちゃった。どうにもならない。

そんな中でじんわりと気づいたこと。
毎日毎日3度3度の料理って、制作と似ていて、楽しくスリリングで創造的なんじゃないかって。

この場合の料理って、高級食材を揃えてレシピ通りに作るってヤツじゃない。
あるものを組み合わせて、「なにか」をつくる。、、って、私のアートの制作スタイルと同じだ。
料理もアートも、私には、生活の中の「身の丈にあったモノ」なんだと再認識させられました。


さて、本題。アシタバ。

ふつうは春から初夏あたりが旬とされていて、柔らかい新芽を食べるもの、とされている。
でも、夏過ぎの巨大に育ったゴワゴワした葉っぱだって食べられるのだよ。食べるのだよ。

ウチの周りにもアシタバが自生してる。大島の対岸だからか、植生が似てる。
以前、山の中に住んでいた時、アシタバの苗を植えたことがあったけど、うまく育たなかった。
アシタバには潮風が必要なんだぞって、近所のおじさんに笑われたなぁ。

で、佃煮だ。

茎も葉っぱもザクザク切って、煮る。
味付けは、砂糖としょう油。しょう油がなければ塩でもダイジョーブだった。
ゼイタクがお好みならば、みりんや酒も加えてね。

ひたすら煮詰める。何のコツもいらない。カンタン。要るのは時間だけ。
出来た佃煮は、野の味がする。 スーパーで売ってるやわなアシタバじゃあ、この野太い味は出ないね、きっと。
おいしいんだ。

さてと。
アシタバを食べたら、次は何処へ行こう。。。

2020.9.16記


第0話


舟を出す。


家の近くで自生しているアシタバを摘めば、伊豆大島を思います。
茎を切れば、切り口から黄色の液がしたたる。その鮮やかな色に、昨夏滞在制作していた大島の暑い空気がよみがえります。

1年後の今。滞在制作‐レジデンスもなく、大島の対岸の伊豆で静かな時を過ごしています。
アシタバを摘んでは料理して食べる日々。この静かな生活の中でじんわりと気づかされました。
作品をつくることも、料理することも食べることも、私にとってどれも同じ重さで、楽しく創造的だと。


私の所から見える大島は、島自体が大きな舟のように見えます。
もっと離れて鳥瞰すれば、地球全体が宇宙空間に漂う小さな舟でしょう。
それぞれのヒトの生もまた、流れを下る小さな舟のようなものでしょう。
舟の最終目的地が「死」であろうとも、その道すがらどんな愉しみが待っているのでしょう?
今日は何に出会うのだろう?

今回のアートアイランズTOKYO 2020で私は、大島名産のアシタバを手掛かりの出発点とし、5か月の旅をスタートさせます。
「つくる」行為「生きる」ことをめぐって、私という小舟で見えてくる「今・ここ」を時折、更新していきます。

目的地もない舟行。

しかし。
流れは思った以上に、速い。

2020.8.22記